大判例

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高松地方裁判所 昭和50年(ワ)200号 判決

原告

上原勝直

右法定代理人親権者父

上原茂市

同母

上原喜久子

原告

上原茂市

原告

上原喜久子

右三名訴訟代理人

武田安紀彦

永井弘通

被告

尾崎浩

被告

日本電信電話公社

右代表者総裁

秋草篤二

右指定代理人

福富昌昭

外三名

主文

一  被告らは、連帯して、原告上原勝直に対し、金五五〇万円及びうち金五〇〇万円に対する昭和四六年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告上原茂市及び原告喜久子に対し各金五五万円及びうち金五〇万円に対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを六分し、その一を被告らの、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、連帯して、原告上原勝直に対し金三三〇〇万円及びうち金三〇〇〇万円に対する昭和四六年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告上原茂市及び原告上原喜久子に対し各金五五〇万円及びうち金五〇〇万円に対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。〈以下、事実省略〉

理由

第一当事者の地位

原告勝直が昭和四六年七月六日生れの男児で、原告茂市、原告喜久子が原告勝直の父母であること、被告公社が被告病院を経営するもので、被告尾崎医師が被告公社の被用者として被告病院小児科に勤務する医師であることは当事者間に争いがない。

第二原告勝直の失明に至る経過

一原告勝直の出生と臨床経過

1  原告勝直は、昭和四六年七月六日(以下、昭和四六年の月日は、単に月日をもつて示す)午後七時ころ被告病院において出生したが、出生予定日より約三か月早い出産のため生下時体重が一三四〇グラムの未熟児であつたこと、原告勝直は、出生後直ちに保育器に収容され、被告病院小児科担当医師である被告尾崎医師の管理下において看護保育されたが、出生日の七月六目から八月三日までの二九日間、保育器内で酸素の投与を受けたこと、原告勝直は、八月二二日、保育器から出されて新生児用ベッドに移され、八月二八日、被告尾崎医師から退院許可を受け、九月四日、体重が三〇〇〇グラムに達して被告病院を退院したこと、以上の事実は、当事者間に争いがない。

2  右当事者間に争いのない事実に、〈証拠〉を総合すれば、被告らの主張2の原告勝直の臨床経過の項に掲記の各事実が認められるところ、右事実を今、ここに要約すると、以下のとおりである。

(一) 原告勝直は、在胎週数三〇週、生下時体重一三四〇グラムの極小未熟児として出生し、出生直後は呼吸障害が著しく、全身にチアノーゼが出現して生命の維持が危ぶまれた。

その後、同原告は徐々に全身状態の回復をみたものの、無呼吸発作や不規則呼吸を繰り返し、体温も低体温を記録して、時には呼吸停止や四肢のチアノーゼなど重篤な症状を示し、生後約四週間を経た八月三日ころに至り、ようやく呼吸が安定し、体温も上昇をみた。

そして、その後、同原告は比較的安定状態を維持したが、保育器から新生児用ベッドに移された翌日の八月二三日には、体温、脈はく数、呼吸数の異常増加が、また、同月二五日の血液検査の結果では強い貧血がそれぞれみられ、同月二八日に至り、ようやく退院許可を受けるに至つた。

(二) 原告勝直は、出生後直ちに保育器(V―55アトム未熟児保育器)に収容され、酸素投与を受けたが、被告尾崎医師の指示により、当初から酸素濃度を三〇パーセント以下に保ち、原告勝直の呼吸の状態など全身状態の回復に応じて漸次酸素投与量を減じていく措置がとられた。しかし、生後二週間目の七月二〇日ころまでは、酸素投与量を減らすと、原告勝直に無呼吸発作など呼吸障害が出現し、その都度酸素投与量を少し増量し、全身状態の回復をみてまた減量することが繰り返された。このようにして、原告勝直に投与された酸素量は、七月六日の出生当時に酸素濃度二八パーセントないし三〇パーセント、酸素流量三リットルであつたのが、七月二〇日には、酸素濃度二五パーセント、酸素流量1.5リットルにまで、七月二八日には、酸素濃度二一パーセント(空気中と同程度)、酸素流量0.5リットルにまで、それぞれ減量され、生後二九日目の体重が一五八〇グラムとなつた時点で酸素投与が中止されている。

3  以上のほか、前掲各証拠によれば、原告勝直の臨床経過として、つぎの事実が認められる。

(一) 原告勝直は、入院当初三日間の飢餓期間をおかれ、七月九日からブドウ糖が投与されたほか、栄養管により母乳及び未熟児用ミルクが少量ずつ投与され、八月一九日から経口による哺乳が行われた。

(二) 原告勝直の体重は、生下時体重が一三四〇グラムであつたが、徐々に減少して生後一三日目の七月一九日には一〇〇〇グラム前後となり、その後増加をみて、生後一九日目の七月二五日に生下時体重の一三四〇グラムに、二五日目の七月三一日に一五三〇グラムに、四〇日目の八月五日に二〇〇〇グラムに、五四日目の八月二九日に二五八〇グラムに、六〇日目の九月四日(退院時)に三〇〇〇グラムに、それぞれ達した。

(三) 原告勝直の入院中、酸素投与、栄養補給、症状悪化の際の投薬、人工呼吸等の措置については、事前に、被告尾崎医師から指示がなされ、これを受けて担当看護婦が原告勝直の看護、保育に当り、日々の体重、体温、呼吸数、脈はく数などの諸症状及び酸素投与量、栄養補給、投薬その他の医療措置は、逐一、看護記録に記入されている。

なお、原告勝直は、被告病院における最初の未熟児患者であるうえ、母親の原告喜久子が被告病院に勤務する看護婦という事情(以上の事実は当事者間に争いがない)も加わり、原告勝直に対しては、ほぼマンツーマンの看護体制がとられ、同原告用の特製おむつカバーを考案して施用するなど、担当医師及び看護婦が一体となり、献身的に原告勝直の医療、看護に当つた。

(四) 原告勝直は、被告病院入院中の八月三日ころから、眼脂が出始め、八月四日から一目に数回カナマイの点眼が行われ、退院前ころには眼脂の量は幾分減少したものの、退院前日の九月三日まで、約一か月間、ほぼ連日、点眼が続けられた。

(五) 原告勝直は、八月二八日に被告尾崎医師から退院許可を得ているが、看護記録中の同医師の指示欄には、「退院は月末でもよいし、しばらく預つてもよい。御自由に、とにかく退院許可」との記載もあり、原告喜久子において、原告勝直の入院費が月極めとなつていた関係と同原告の体重が三〇〇〇グラムになつてから退院させたいとの希望があつたことから、原告勝直の退院は、右退院許可後一週間を経た九月四日となつた。

二原告勝直が失明の診断を受けた経過

1  被告尾崎医師が、八月二八日、原告勝直の退院許可に際し、原告喜久子に対し原告勝直の眼科医受診のための紹介状を書く旨申し向け、九月二日、原告喜久子の申し出により県立中央病院眼科あてに原告勝直の紹介状を書き、同日、これを原告喜久子に交付したこと、原告勝直が、九月二八日、県立中央病院の眼科で診察を受け、本症に罹患している旨の診断を受けたこと、以上の事実は、当事者間に争いがない。

2  右当事者間に争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 原告喜久子は、九月二日、被告尾崎医師から原告勝直の県立中央病院眼科あての紹介状の交付を受けたが、右紹介状(乙第四号証)には、主訴として未熟児の眼科的検査及び眼脂と標記のうえ、原告勝直が在胎三〇週、生下時体重一三四〇グラムの未熟児であること、同原告に対し酸素を三リットル(二八パーセントないし三〇パーセント)を二日間、2.5リットル(二七パーセントないし二八パーセント)を七日間、二リットル(二五パーセントないし二七パーセント)を四日間、1.5リットルを三日間、一リットルを六日間、0.5リットルを六日間、それぞれ使用したこと、全身状態の悪化により一時心配させられたが漸次改善され順調に経過したとの記載があり、眼科的に異常はないか御高診を願う旨、さらに、なお書として、生後一か月ころより右眼脂を訴え、カナマイ軟膏を使用したがまだ十分でない旨の各記載がなされていたが、右紹介状は封筒に入れられて原告喜久子に交付され、同原告においてその内容を閲読してはいなかつた。

(二) 原告勝直が九月四日に被告病院を退院した後、原告喜久子は同原告を自宅において保育していたが、九月二六日ころ、たまたま夜半に同原告の眼を電球の光でみたところ硝子玉のように透き通つて見え、左右の瞳孔の大きさが違うことに気付いた。

そこで、原告喜久子は、九月二七日、被告病院において被告尾崎医師に対し原告勝直の眼の異常を訴えたところ、「まだ行つてなかつたの。」と眼科医の受診未了を叱責され、早期に眼科医の診察を受けるよう指示された。

(三) 翌九月二八日、原告喜久子は右紹介状を持参して原告勝直を県立中央病院へ連れて行き、同病院眼科部長藤沢医師の診察を受けさせたところ、同医師の原告勝直に対する診断は「両眼ともに水晶体後部線維増殖症(本症の別名称)に罹患し、左眼は著明で水晶体後面に新生血管(増殖)を認め、右眼にもかなりの病変を認める。光凝固法の適応となるかどうか決定したいので一か月後位に再検査を希望する、左眼に関しては望みなし、右眼に望みが持たれますが……」とのことであつた。

(四) 原告喜久子は、右藤沢医師の診察により、原告勝直が本症により少なくとも一眼は失明する旨知らされ驚いたが、そのころ、同僚の看護婦から、高松赤十字病院の眼科部長丸山医師が本症について知見度が高いことを聞かされ、一〇月一日、被告尾崎医師の紹介状を得たうえ、一〇月二日、原告勝直を右丸山医師に診せたところ、同医師の診断は、原告勝直の両眼ともに高度の本症罹患を認め、ほぼ失明を免れないとのことであつた。

しかし、丸山医師は、原告喜久子に対し、本症に罹患した患者を天理よろず相談所病院の永田医師のもとに送つて良好な治療結果を得た例があることを説明し、右永田医師に原告勝直を診せることを勧め、右同日付の紹介状を交付した。また、これと前後して、原告喜久子は、同僚の助産婦から永田医師の本症治療(光凝固法の施行)に関する記事が医学雑誌に掲載されていることを聞かされ、是が非でも原告勝直を永田医師に診せるべく、天理よろず相談所病院へ数回電話を入れ、直接永田医師に受診を申し入れてその承諾を得た。

(五) かくして、一〇月五日、原告喜久子及び同茂市は、原告勝直を高松市から自動車で奈良県天理市の天理よろず相談所病院まで連れて行き、永田医師の診察を受けたが、同医師の診断によれば、原告勝直は両眼ともに本症に罹患し、オーエンスの5期の段階で、すでに網膜は両眼とも完全に剥離し、光凝固法によつても治療不能の状態にあるとのことであつた。

(六) その後、原告勝直は、一〇月二三日、高松赤十字病院の丸山医師から未熟児治療による酸素吸入を原因とする両眼未熟児網膜症(推定視力両眼とも零、矯正不能)のため障害等級一級と認める旨の診断を受けたが、原告茂市の両親の意見もあつて、さらに念のため、大学病院で一度診察を受けるべく、原告喜久子らは、被告尾崎医師の紹介状を得て、一〇月二七日、徳島大学医学部付属病院眼科に原告勝直を同行した。しかし、同大学眼科教授三井幸彦医師の診断も、同様の結果で、原告勝直の本症につき、「病状は最盛期にあり、ここまで来ると光凝固法の対象とならない、ステロイドも効果がないと思われ放置するほかない、今後は続発性緑内障が起きる虞れがある」とのことであつた。

第三責任原因

一原告勝直の失明の原因

1  未熟児とその治療、保育

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(一) 未熟児とは、生下時体重が二〇〇〇グラム以下の新生児をいい、そのうち生下時体重が一五〇〇グラム以下の未熟児は、極小未熟児と呼ばれ、その未熟性が著しい。

未熟児、ことに極小未熟児は、母胎内で十分な生育を遂げないまま胎外に生み出されるため、身体のあらゆる機能が未成熟で、成熟児に比べて、外界における適応能力が極めて弱く、死亡率も高いうえ、生存を維持し得たとしても諸々の身体的障害を惹起し易い。

例えば、昭和四七年八月から昭和四八年一月までの間に、大阪府及び兵庫県下の一四の市中病院において生後二八日以内に死亡した一四四例の新生児を対象に調査した結果によると、死亡新生児のうち未熟児が全体の六八パーセントを占め、中でも一〇〇〇グラムないし一五〇〇グラムの群が最も多い。

(二) 未熟児は、呼吸中枢ないし肺機能が未発達であるため、無呼吸発作やチアノーゼを伴う呼吸窮迫症候群などの呼吸障害を起こし易く、酸素不足による死亡または永久的な脳障害の危険が大である。そして、これを避けるためには、未熟児を出産後直ちに適温、適湿の維持された保育器に収容し、酸素を十分に与えることが必要であり、特に極小未熟児は、重篤な呼吸障害に陥り易く、保育器内での酸素投与は不可欠といえる。

2  本症の発生原因と臨床経過

〈証拠〉を総合すると以下の事実が認められる。

(一) 本症の発生原因ないし発生機序については、いまだ医学的に完全に解明されているとはいえないが、未熟児の網膜血管の未熟性を主因とし、未熟児に対する酸素投与を誘因として本症が発生するとする見解が有力であり、これによれば、人の網膜は胎生四か月までは無血管で、四か月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生六か月ないし七か月において血管発達は最も活発であるが、在胎八か月では網膜鼻側の血管は周辺まで達し、耳側では鋸歯状縁に達していない、そして、在胎七か月ないし八か月で出生すると、網膜の前方は無血管の状態にあり、この段階で胎内と全く異なり、呼吸によつて外気中の酸素を吸入すると動脈血中内の酸素分圧が上昇する、そのため、第一次的効果として、発育途上の未熟な網膜血管が収縮し、先端部が閉塞する、続いて、右網膜血管先端部の閉塞によつて酸素供給が停止し、第二次的効果として、無血管帯の網膜は無酸素状態となり、異常な血管新生、硝子体内への血管進入、後極部血管の怒張、蛇行が起き、遂には網膜剥離を引き起こして本症の発生に至る、とされている。

(二) 右見解の実証的裏付けとして、本症は、未熟児のうち在胎週数ないし生下時体重が少ない程その発生率が高く、酸素投与の期間ないし量が増す程、同様発生率が高くなることが報告されている。ただし、極く稀には酸素投与を全く受けていない未熟児に本症が発生した例が報告されており、児の個体差や酸素以外の他の因子の存在が指摘されているけれども、本症発生の要因として、未熟児の網膜血管の未熟性と酸素投与が挙げられることは、ほぼ異論をみないところである。

(三) 本症の臨床経過及び臨床分類については、当初、一九五四年にオーエンスが発表したものが広く用いられ、これによると、本症は、活動期、寛解期、瘢痕期に分けられ、さらに活動期は、1期(血管期、網膜血管の迂曲、怒張が特徴で、網膜周辺部に血管新生が起こり、その血管の先端部は細かく異常分岐している。)、2期(網膜期、網膜周辺に浮腫、出血、血管新生が起こり、ついで硝子体混濁が始まり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起が現われる。)、3期(初期増殖期、限局性の網膜隆起部の血管から発芽が起こり、新生血管の細かい分岐が硝子体内へ進出し、周辺網膜に限局性の剥離を起こす。)、4期(中度増殖期、増殖性変化が進行し、網膜の半周または全周が剥離する。)、5期(高度増殖期、網膜は全剥離の状態となる。)の五期に分類される。また、寛解期については、本症の発症例のうち全例が活動期の5期まで進行するものではなく、各期より消退が起きるが、1期ないし2期で寛解する例が多いとされ、瘢痕期は、程度に応じて1ないし5度に分類されるのが、4ないし5度では網膜が完全に剥離し全盲の状態となるとされている。

(四) その後、我が国においては、永田医師らの研究者により本症の独自の分類法が発表され、また、右オーエンスの分類のような段階的進行を辿るもの以外に、急激に網膜剥離まで進行するいわゆる激症型と呼ばれる類型が報告されるなどして、医師間における本症の臨床経過ないし診断基準の統一が要請されていたところ、厚生省は、右要請に応えるべく昭和四九年度特別研究費補助金に基づき、本症研究の主たる眼科研究者と新生児医療の研究に卓越した小児科、産科の研究者による、本症の診断及び治療基準に関する特別研究班を組織して本症の研究に当らせた。

右厚生省特別研究班は、昭和五〇年三月に「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」と題する報告書を発表したが、右研究報告(以下、厚生省特別研究報告という)は、現在における本症の最も信頼できる研究成果と理解して差し支えなく、これによると本症の臨床経過分類は、つぎのとおりである。

本症は、臨床経過、予後の点より、Ⅰ型、Ⅱ型に大別され、Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内滲出及び増殖性変化を示し、最後に牽引性剥離と、段階的に進行する比較的緩和な経過をとるもので、自然治癒的傾向の強い型であり、Ⅱ型は、主として極小未熟児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、無血管領域は広く、その領域は、ヘイジ・メディア(眼球の透光体の混濁状態)のため、不明瞭であることが多い、後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、Ⅰ型と異なり、段階的進行経過を辿ることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない、予後不良の型である。ちなみに、植村恭夫によれば、Ⅱ型の発症率は非常に少なく、Ⅰ型の発症率の約一〇パーセントである)なお、極めて少数ではあるが、Ⅰ型とⅡ型の混合型ともいえる型がある。

Ⅰ型の臨床経過は、つぎの四期に分類される。

1期 (血管新生期)

網膜周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管領域で蒼白にみえる。後極部に変化はないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

2期 (境界線形成期)

網膜周辺、ことに耳側周辺部の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。

3期 (硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

4期 (網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められるもので、耳側の限局性剥離から全局剥離までが含まれる。

なお、厚生省特別研究班報告によると、本症の瘢痕期の程度について、1期(眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。)、2度(牽引乳頭を示し、黄班部に病変が及んでいる場合は、種々の視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。)、3度(網膜襞形成を示し、視力は0.1以下で弱視または盲教育の対象となる。)、4度(水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度で、盲教育の対象となる。)の四段階に分類している。

(五) 本症の発生時期については生後三週間ないし一か月ころから三か月の間に発生する例が多いとされ、また、本症につき自然寛解する率が高いことは、本症の研究者が共通して指摘するところで、植村恭夫は本症のうち約七〇パーセントが、馬場一雄は、約七五パーセント(約四五パーセントは完全治癒、約三〇パーセントは軽度の視力障害に止まる)が、三井幸彦に至つては、九〇パーセント以上が、それぞれ自然治癒すると述べている。

3  原告勝直の失明原因

以上の事実からすれば、前記認定のとおり、原告勝直は、在胎週数三〇週、生下時体重一三四〇グラムの極小未熟児として出生し、被告病院において出生直後から相当期間酸素投与を受けたものであるから、原告勝直の両眼失明は、同原告の網膜の未熟性が主因となり、被告病院における保育器収容中の酸素投与が誘因となつて本症が発生し、瘢痕期の終期まで進行して失明に至つたものと理解することができる。

ただし、原告勝直における本症発生の時期、進行過程については、後記のとおり定期的眼底検査を実施していない本件にあつてはこれを明らかにし得ず、また症例についても、証人三井幸彦の証言中には、原告勝直の本症をⅡ型(激症型)と断言する供述部分があるが、同証人が原告勝直を診察したのは、前認定のとおり、生後約四か月を経た時期に一回だけであり、本症につきⅠ型、Ⅱ型の症例別を識別するには活動期病変の進行過程を観察しなければならないこと後述のとおりである事実に照らせば、右証言部分は直ちに採用することはできず、原告勝直の本症のⅠ型、Ⅱ型の症例別についてもこれを明らかにし得ないというほかはない。

二本症に関する一般的医療水準

1 医師の責任と一般的医療水準

医師は、その職責からして、自己の診察する患者の生命、身体の管理について万全の注意を払うべき義務を負うものであることは、多言の要なく、今日の日進月歩する医学界にあつては、その進歩に遅れることがないよう、自己の専門とする診療科目はもとより、関連科目についても、日頃から、専門誌の購読、学会への参加などを通じ、研鑚を積むべきであり、これを怠り、現に新たな医学的治療法の開発、普及がなされているのにそれについての知見を欠き、もつて、自己の患者に対し、かかる新治療法の適用ないし適用の機会を得せしめずして不良の結果を招来せしめた場合には、その責任を負うべきことは当然のことといわなければならない。

しかしながら、一方、新たな治療法については、その開発後、幾多の臨床実験ないしは追試とそれらの公表によつて評価が定まるものであつて、一般臨床医師の間に普及をみるには、かなりの年月を必要とし、右新治療法が高度の技術的習練や高価な設備、機器を要する場合はなおさらのことというべきである。従つて新治療法の開発及びその発表があつたとしても、直ちにこれによつて、同治療法の有効性を前提とした一般医師の責任が生ずる訳ではなく、新治療法についての評価の確立度合と同治療法の普及度合などの一般的医療水準に応じて医師の責任の有無ないしはその態様が問われるべきものである。

従つて、本件において、原告勝直の本症による失明につき、被告尾崎医師の責任の所在を判断するに際しては、本件当時の本症の眼科的検査と治療方法の存否、内容、効果並びに本症及び本症治療に関する医学的水準ないしは普及の程度が前提問題となるので、以下、これらの点について順次検討を加える。

2  本症の眼科的検査と治療方法

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一) 出生した未熟児について、本症罹患の有無及び罹患していた場合の進行状況の把握は、児に対する眼底検査の実施によるほか、方法がない。

そして、本症が未熟児の出生後三週間ないし一か月ころから三か月の間に多く発生し、前記臨床経過を辿ることからして、本症発症の有無及び進行状態を正確に知るには、生後三週以降において週一回、三か月以降において隔週または一か月一回の頻度で六か月まで、それぞれ定期的に眼底検査を実施する必要があるとされている。

また、未熟児に対する定期的眼底検査の必要性は、後述の光凝固法の開発、研究以前から植村恭夫らによつて唱えられていたが、現在では、光凝固法による本症治療の適否ないし適期の診断を目的として実用的意義を認められ、あらためてその必要性が強調されている。

(二) 未熟児に対する眼底検査は、児に予かじめミドリンなどの散瞳剤を点眼した後、倒像検眼鏡または直像検眼鏡を用いて行うが、網膜周辺ことに耳側周辺部を観察するには倒像検眼鏡が適当で、直像検眼鏡では網膜周辺部の初変病変を見のがすことがある。

右眼底検査は、未熟児が保育器内で酸素投与を受けているとき保育器の外部から行うことも不可能ではないが、通常は児を保育器内から出して行い、検査に要する時間は約一〇分間位で、児にそれほどの負担をかけるものではないが、児の全身状態の悪い場合は勿論実施すべきではなく、その判断は児を担当する小児科医ないし産科医に委ねられる。

(三) 未熟児に対する眼底検査自体は、一般の眼科医にとつてさして困難なものではないが、本症の発見、ことにその臨床経過の正確な診断は、俗に眼底検査三年の言葉がある位で、多数の症例を観察した臨床経験と熟練した技術を要するとされ、現在でもその能力を有する眼科医の数は、全国的にみても必ずしも多いとはいえない状況にある。

また、眼科の併設された総合病院では、眼科医と小児科医ないし産科医の提携によつて、未熟児の眼底検査の実施が可能となるが、そうでない病院においては、眼科医の出張診察を要請するか、児を眼科医のいる病院まで搬送するしかなく、前者の方法による場合は、他の病院及びその眼科医との間の協力体制が、後者の方法による場合は右協力体制に加えて未熟児の搬送を可能ならしめる携帯用保育器の備え付けが不可欠の前提条件となる。

(四) 本症に対する治療法については、これまで、ステロイド(副腎皮質)ホルモン、ACTHなどの薬物療法並びに光凝固法及びこれと原理を同じくする冷凍凝固法の物理療法が開発、適用されているが、右薬物療法は、一時期、有効視されたこともあつたが、現在ではその治療上の効果について消極的見解が有力で、むしろ児への全身的な副作用が指摘され、施行されなくなつている。

(五) 光凝固法は、太陽光線を凸レンズで集めて黒い紙の上に焦点を結ばせると紙が燃えだす原理を眼科治療に応用したもので、眼底の疾患部位に光のメスともいえる光線を照射して行う外科的手術であり、元来は、成人の網膜剥離の治療に用いられていたのを、未熟児の本症治療に適用したものである。

(六) 光凝固法の本症治療上の有効性については、本症が自然治癒傾向の強い疾患であり、一方、光凝固によつても進行を阻止し得ない症例も稀にみられることから、同法の本症に対する治療効果を疑問視する見解や、また、発育過程にある未熟な網膜に外科的療法である光凝固法を施行することは、児の網膜に永久的な瘢痕を残すことになり、将来、網膜剥離などの後遺症を発生させる虞れがあると指摘する見解など、消極的見解が存在し、一方光凝固法の本症治療への適用が昭和四二年に我が国の永田医師により初めて開発されたものでその歴史が比較的浅く、欧米諸国においてはその実施例が極めて少ないことから、本症に対する光凝固法の治療上の効果が不動のものとして確立するには、なお今後の実践、研究を要することについては、推進者の永田医師を含めて研究者の見解の一致するところである。

(七) しかしながら、光凝固法の本症適用は、昭和四二年の永田医師の開発以来、後に詳述するとおり、数多くの研究者、研究機関によつて追試、研究、実践が重ねられており、現在のところ、前記消極的見解も存在するものの、光凝固法の本症治療上の効果を全く否定する見解はなく、むしろ、適応症例の選別と治療時期を誤らなければ、光凝固法は本症の進行を阻止する有効な治療方法であることを肯定する見解が有力である。

(八) すなわち、本症の診断及び治療基準について、現在のところ最も信頼できる研究報告である前記厚生省特別研究班報告も、今後の研究の必要と修正の余地があることを前提としながらも、光凝固法の本症治療上の効果を一応承認したうえで、その治療時期及び治療方法について、つぎのとおり、論述している。

(1) 治療時期

Ⅰ型の本症は自然治癒的傾向が強く、2期までの病期中に治癒すると将来の視力に影響を及ぼさないので、2期までのものについては治療を行う必要はなく、3期において更に進行の徴候がみられる時に初めて治療が問題となる。ただし、3期に入つたものでも自然治癒する可能性は少なくないので進行の徴候が明らかでない時は治療に慎重であるべきである。この時期の進行傾向の確認には同一検者による規則的な経過観察が必要である。

Ⅱ型の本症は、血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとする治療時期を失う虞れがあり、治療の決断を早期に下す必要がある。また、Ⅱ型の本症は、極小未熟児で未熟性の強い眼に発生するので、このような条件を備えた例では綿密な眼底検査を可及的早期から行うことが望ましい。

(2) 治療方法

光凝固法は、Ⅰ型においては無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、さらに、これより周辺側の無血管領城に散発的に凝固を加えることもある。

Ⅱ型においては、無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。

(九) 未熟児に対し光凝固法を実施するには、相当高価な機械である光凝固法の設置と熟練した高度の技術を有する眼科医の配置が必要である。

また、光凝固法の施行には、未熟児を保育器から出したうえ、全身麻酔または局部麻酔をする必要があり、手術に約一時間を要するから、児の全身状態がこれに耐え得る良好なものでなければならないことは勿論である。

厚生省特別研究班報告も、本症の治療は、児の良好な全身管理のもとに行うことが望ましく、全身状態不良の際は生命の安全が治療に優先するのは当然である旨指摘している。

3  本症及び本症治療に関する医学的水準ないしは普及の程度

〈証拠〉並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 本症の研究は、一九四二年にアメリカのテリーが未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告し、Retrolental Fibroplasia(水晶体後部線維増殖症)と名付けたのを先駆とし、その後、オーエンスらによつて本症が未熟児の後天性の眼疾患であることが明らかにされて名称もRetinopathy of Prematurity(未熟児網膜症)と呼ばれるようになつた。

本症は、一九四〇年から一九五〇年ころに、アメリカにおいて多発し、多数の失明児を出して社会問題化したが、一九五一年にオーストラリヤのキャンベルが未熟児保育時の酸素過剰投与に原因があると唱え、一九五四年、アメリカ眼科学会が未熟児に対する酸素投与の制限的使用を勧告してから、本症の発生頻度が急激に減少した。

(二) 我が国において、保育器の使用による未熟児保育が発達したのは、昭和三〇年ころからで、欧米において酸素制限により本症の激減をみた後であつたため、本症に関する眼科医、小児科医の関心は薄く、一般には、もはや過去の疾患として扱われていた時期があつた。

しかしながら、我が国においても、未熟児の医療保育が発達し、多量の酸素投与を余儀なくされる極小未熟児の生存率も高まるにつれて本症の発生が増加し始め、昭和四〇年前後ころから一部の先駆的な眼科医によつて、本症の本格的な臨床的研究が進められるに至つた。

(三) そこで、まず、本症の発生と酸素投与との関係についての医学的水準の推移をみるに、昭和三〇年代から昭和四〇年代前半ころまでは、医学教育ないし医学文献において、本症の発症予防のため未熟児に対する酸素投与を制限すべきことが強調され、その基準として酸素濃度は四〇パーセント以下とし、減量は徐々に行うのがよいとされていた。そして、前述のとおり、欧米において酸素制限の勧告により本症の激減をみた後に我が国の未熟児保育が本格化したこととも関連し、当時、我が国の臨床小児科医の間においては、未熟児に投与する酸素の濃度を四〇パーセント以下に制限すれば本症の発生を防止できるとする向きの見解が一般化していた。(ただし、そのころにおいても、医学文献上、酸素濃度を四〇パーセント以下とすれば本症の発生が防止できると断定した論述ないし教科書は見当たらない。)

しかし、昭和四〇年代後半になると、一部の研究機関を中心とした未熟児に対する定期的眼底検査の実施による本症の臨床的研究の成果が公表され始め、これによれば、本症の発生の投与された酸素の濃度や量と単純な相関関係にあるのではなく、児の動脈血の酸素分圧値と関係するもので、従つて無呼吸発作などの著しい呼吸障害によりチアノーゼを呈している場合は、救命や脳障害防止のため高濃度の酸素投与を行つてよいが、その状態が改善された場合は直ちに酸素を減量または中止すべきであるとする見解が有力に提唱され、酸素濃度を四〇パーセント以下に押えた児や、極端な場合は酸素投与を全く行つていない児にも本症の発生をみている例が紹介されて、従来の酸素濃度四〇パーセント以下であれば安心であるとの一般的認識の危険性が指摘され、あわせて未熟児に対する定期的眼底検査の心要性が強調されるに至つた。

(四) つぎに、本症の眼科的検査に関する医療水準ないし普及度合についてみるに、本症の早期発見のために未熟児に対する眼底検査の必要があることを啓蒙的に主張したのは、植村恭夫であり、同医師は、昭和三九年ころから、眼科専門誌に本症に関する右主張を重ねて発表するとともに、昭和四〇年一一月、国立小児病院眼科医長に就任して、未熟児の定期的眼底検査を実施した。

しかし、未熟児に対する本症の発見を目的とした眼底検査の実施は、植村医師の啓蒙的努力にもかかわらず、前記のとおり、我が国においては、本症は過去の疾患と考えられて一般に眼科医、小児科医の関心が薄かつたこと、未熟児に対する眼底検査は、高度の技術的能力を要するうえ眼科医と小児科医との異なる専門領域の医師相互間の提携、協力体制を要すること、本症に対する確たる治療法の開発が遅れ、治療と結びついた検査としての眼底検査の実用的意義が認められたのは光凝固法の開発、普及以後であつたことなどの理由から、一般の医療機関への普及は速やかにとはいかず、本症の先駆的な研究者の勤務する病院(その大半は、大学病院)、本症に特に関心を有する医師の勤務する一部の病院から徐々に未熟児に対する眼底検査が普及していつたに止まつた。(ちなみに、昭和四九年ころの東京、神奈川地区の調査によつても、眼科と小児科との提携のもとに未熟児眼底検査を実施している病院は、国、公立の総合病院で約半数位であつた。)

(五) ここで、本件発生当時(昭和四六年七月)ころにおける香川県地方の来熟児眼底検査の普及度合についてみるに、四国地方は、新生児医療、ことに未熟児の眼底管理については、全国的にみて相対的遅れの指摘される地方であり、香川県内には、いわゆる大学病院はなく、比較的医療水準の高い国公立の病院のうち、当時、未熟児に対し退院時までの間に何らかの形で、すなわち、全員、定期的にとはいかないまでも眼底検査を実施していたのは、国立善通寺病院、高松赤十字病院、三豊総合病院及び屋島総合病院の四病院のみで、県立中央病院、県立津田病院、栗林病院では全く眼底検査を実施していなかつた。

そして、眼底検査を実施していた四病院は、いずれも眼科の併設された総合病院であり、かつ、その病院で出生した未熟児のみを検査の対象としたもので、眼科の併設されていない他の病院と提携、協力して出張検診または児の搬送により他院の未熟児の眼底検査を実施した例は皆無であつた。

(六) つぎに、本症の治療法の開発と普及度合についてみるに、ステロイド等の薬物療法は現在その効果が消極に解され、冷凍凝固法はその開発が本件発生後であるから、光凝固法について検討する。

光凝固法を本症の治療に初めて適用したのは天理よろず相談所病院の永田医師であり、同医師は、昭和四二年一、二月ころ、オーエンスの臨床分類の活動期3期に入り、なお増殖を停止しない二例に同法を施行して良好な結果を得、これを同年秋の日本臨床眼科学会で発表し、翌四三年四月、これを同学会雑誌に発表した。

ついで、永田医師は、昭和四三年一月から翌四四年五月までに同法を四例に追加施行し、その結果を昭和四四年秋の右同学会に報告(同学会誌発表は昭和四五年五月)したが、本症のオーエンス3期に入つてなお進行を止めないような重症例でも、光凝固法により治癒せしめ得ることが明らかとなつたとして光凝固法の有効性を強調するとともに、同法実施の適期をオーエンス3期となつて網膜剥離を起こす直前とした。

その後、永田医師は、昭和四四年九月から昭和四五年六月までに同法を六例に追加施行し、その結果を昭和四五年一一月発行の同学会誌に発表し、さらに昭和四五年七月から昭和四六年四月までに一三例に追加施行し、それまでの合計二五例の治療例を総括して、昭和四六年秋の同学会で「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)」として報告した(翌四七年三月、同学会雑誌に発表)。右報告によれば、二五例のうち、他院紹介患者が一九例で、そのうち二例は来院の際、既に治療の適期を過ぎていたため(いずれも生後八〇日を越えて光凝固法施行)、オーエンス3度以上の重症瘢痕を示し、六例に同2度の瘢痕を示したが、自院患者六名を含めて他の一七例はすべて完全治療をみたとされ、本症による失明防止のため、定期的眼底検査による本症の早期発見と適切な病期における光凝固法の施行の重要性を強調している。

(七) 永田医師の光凝固に関する右発表は、他の眼科研究者ないし研究機関の注目を集め、昭和四四年ころから全国各地で追試が試みられたが、主なところでは、九州大学において昭和四五年一月から同年一二月までに二三例に施行し、うち二一例に著効を認め、関西医科大学において昭和四五年六月から一一月まで五例施行し、うち二例は治療、二例は失明し(他院よりの転医児)、名古屋鉄道病院において昭和四四年三月から昭和四五年末までに一八例、兵庫県立こども病院において昭和四五年五月から昭和四六年八月までに一〇例、それぞれ施行するなどで、いずれもその結果は、施行時期と施行症例に限界があるとしながらも、基本的には光凝固法による本症進行阻止効果を承認するものであつた。

(八) ただし、光凝固法の本症適用については、なお今後の実践と研究を要することは前述のとおりであり、また、同法の実施には熟練した技術を有する眼科医と高価な光凝固機の配備を必要とし、さらには、適期を判定するための定期的眼底検査の普及を前提とすることから、その全国的普及には相当の時間を要するもので、現在においても、定期的眼底検査と結びつけた同法の普及、徹底が、永田医師ら本症の研究者から繰り返し強調されているところであり、その一方、光凝固法によつても救い得ない本症例の報告から、早産予防のための妊婦管理の重要性が改めて力説されている現状である。

(九) ここで、本件発生当時ころにおける香川県地方の光凝固法は普及度合についてみるに、香川県下の病院において、未熟児の本症に対し光凝固法を自ら実施できる眼科医師ないし病院は皆無であつたが、高松赤十字病院眼科部長であつた丸山光一医師は、京都大学医学部付属病院勤務中に永田医師を知り、永田の本症に対する光凝固法施行の報告を当初から強い関心をもつて受け止め、右報告の発表された昭和四三年ころから、当時勤務していた高松赤十字病院の小児科医から依頼を受けて眼底検査を実施した未熟児のうち、異常を発見したものを毎年一、二例天理よろず相談所病院の永田医師のもとへ光凝固法施行のために送り、そのうち適期を逸せず同法の施行を受け得た約半数の者について良好な結果を得た。

また、隣県の徳島大学医学部付属病院においては、本格的な医療行為というより研究機関としての臨床的追試の目的を兼ねるものではあつたが、非常勤講師の布村医師が、昭和四五年から光凝固法の実施を始め、本件発生時の昭和四六年七月ころまでに、すでに、他院からの紹介患者を含めて一〇数例の未熟児(うち香川県からは国立善通寺病院からの紹介患者二例がある。)に対し同法を施行し、その大半の者について良好な結果を得ている。

三被告尾崎医師の過失の存否

1  被告尾崎医師の本症に関する知見及び原告勝直失明についての予見可能性

被告尾崎医師が昭和四〇年一二月から昭和四四年五月までの間、国立善通寺病院小児科において多数の未熟児の保育に携り、同病院において本症に罹患した未熟児の保育に関与した経験を有すること、同医師が日本新生児学会の結成以来の会員であること及び原告勝直が被告病院に入院中、同病院の健康管理科岡耕一医師に依頼して、同原告に対し眼底撮影を実施したことは、当事者間に争いがなく、右事実に、〈証拠〉並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 被告尾崎医師は、昭和三七年に徳島大学医学部を卒業し、医師免許取得後、同医学部小児科教室助手となり、昭和四〇年一二月、同大学から国立善通寺病院に派遣されて昭和四四年五月まで同病院で臨床経験を積んだ後、同年六月、被告病院に勤務し、昭和四六年三月、同病院小児科部長に就任した者で、本症に関し特に専攻したことはないが、昭和四〇年に結成された新生児、未熟児問題を扱う日本新生児学会に結成当時から入会し、また、国立善通寺病院に派遣中は、同病院内の特殊小児診療センターにおいて未熟児保育に携つた経験を有する。

(二) 被告尾崎医師は、徳島大学の医学教育において、すでに、未熟児に対する酸素過剰投与により本症発生の危険があることを学び、臨床医師となつてからは、新生児ないし未熟児の治療に当り、東大小児科治療指針を一つの拠としていたが、これらによつて、本件発生当時、本症と酸素投与との関係については、本症発生予防のため酸素濃度は四〇パーセント以下に制限し、出来ればこれを三〇パーセント以下に押え、酸素投与停止の際は、これを徐々に減量する必要があると理解し、さらに、酸素投与に際し、右の注意を遵守すれば、ほぼ、本症の発生は防止できると認識していた。(同医師が、右知見に基づき、原告勝直への酸素投与を三〇パーセント以下に制限し、全身状態の改善に照らして、徐々に減量に努めたことは前記原告勝直の臨床経過の項において認定したとおりである。)

(三) 被告尾崎医師は、未熟児に対する眼底検査については、国立善通寺病院に派遣中、昭和四三年ころから同病院の未熟児担当の小児科医師が同病院の眼科医に依頼して未熟児が保育器から出されて退院するまでの間に本症発見を目的に眼底検査を実施していたことから、その必要性を知り、被告尾崎医師自身、同病院において担当した未熟児一〇数例について右同様眼底検査を受けさせた経験がある。(但し、右一〇数例の未熟児については、いずれも本症の発生はなかつた。)

被告尾崎医師は、本件以前に、昭和四四年三月ころ、国立善通寺病院において、他の小児科医師の担当した未熟児で酸素投与を全く行つていない一例に本症が発生したのを見聞しているが、これは、同医師が同病院に派遣されていた約四年半の間に同病院で出生した未熟児二五〇例の一例(ただし、同病院において昭和四二年度に二例、四三年度に五例、四四年度に五例、本症罹患児を出している。)で、担当医師から、病状は比較的緩慢に進行し、ステロイドホルモンを投与しても効果がなかつたことを聞いている。

(四) 被告尾崎医師は、本件発生当時、本症の治療法については、ステロイドホルモンの投与についての知見はあつたが、国立善通寺病院の例からもその効果は疑問視しており、また、光凝固法については、その名称を聞いたことがあるが本症の治療法と関連づけての理解はなく、本症に関する有効な治療法は未だ確立していないと理解していた。

(五) ところで、一時期我が国の臨床小児科医師の間に、酸素制限により本症の発生が防止できるとの一般的見解が存在したものの、昭和四〇年代後半ころから右見解の危険性(酸素制限自体は正しいが、これにより本症の発生がすべて防止できるとする見解の誤り)が指摘され始め、同時に未熟児に対する定期的眼底検査の必要性が強調されるに至つたことは既述のとおりであるが、被告尾崎医師が所属していた日本新生児学会ないし同学会誌だけを取り上げても、本件発生当時までに、本症に関し、つぎのとおり報告がなされていた。

(1) 昭和四四年三月発行の「日本新生児学会雑誌」第五巻第一号は、新生児呼吸障害について特集し、大阪市立小児保健センター未熟児研究グループらによる「新生児特発性呼吸障害の治療」と題する報告を掲載しているが、右報告中には、新生児特発性呼吸障害の酸素療法に関連して本症についての記述があり、本症は未熟児の中でも生下時体重、在胎週数が少ない程発生し易いこと、かつて酸素濃度を四〇パーセント以下に制限すれば安全と考えられていたが、同濃度以下を厳格に保持しながら本症の発生した症例があり、四〇パーセント以下の酸素濃度も長期間投与した場合は必ずしも安全とはいえないことが報告されている。

(2) 昭和四四年一二月発行の同学会誌第五巻第四号には、第五回日本新生児学会総会において、関西医科大学小児科の岩瀬帥子らが「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」と題する報告をした記事が掲載されており、これによると、昭和四二年三月から二年間に同大学未熟児センターで扱つた未熟児一八〇例のうち一五例(8.3パーセント)に本症を認めたこと、本症と生下時体重及び在胎週数との関係では、それぞれ二〇〇〇グラム、三五週以下に圧倒的に多く発生しており、酸素投与との関係では、最高酸素濃度が四一ないし四二パーセントの症例に三例、三〇パーセント以下の症例に二例発生し、この二例は酸素投与時間は僅か四八時間以内であつたこと、本症の発生時期は生後一〇日から五〇日で平均二六日であり、進行度合はオーエンスの瘢痕期2度がほとんどで失明例はなく、経過観察中の二例を除いて全例自然治癒したことが報告され、酸素投与が少量の児に本症の症例を経験したことから、酸素投与の意義には再考を要するものがあり、酸素投与の如何にかかわらず本症の発生が予想されるとして、未熟児に対しては入院時からの経時的な眼科管理とその後の追跡調査が絶対に必要であることを強調している。

(8) 昭和四五年一二月発行の同学会誌第六巻第四号は、国立小児病院眼科植村恭夫の「未熟児網膜症」と題する綜説論文を掲載しているが、右論文は本症に関する当時までの医学的研究成果を詳細に論述し、本症の予防と治療の項では、本症の発生に酸素が「ひきがね」の役割をしていることは否定できず、酸素濃度の適正な看視も勿論重要であるが、児の動脈血酸素分圧値の測定に、より意義があること、しかし、右酸素分圧値の測定は技術的困難を伴い、本症の発見には定期的眼底検査の実施以外方法がないこと、本症の治療法として従来ステロイドホルモンの投与など薬物療法が用いられていたが、その効果について確証が得られず、新治療法開発の努力がなされていたところ、昭和四三年に永田医師らが光凝固法の施行による本症治癒例を報告し、最近各地で同法による治験例が出されていることについて述べ、結語として、光凝固法の開発により、本症は、早期に発見すれば失明を防止できることがほぼ確実となつたこと、従つて、未熟児の眼科管理を普及徹底するとともに、光凝固法による治療を可能ならしめるため麻酔医、産科医、小児科医と眼科医の密なる連繋を作るよう努力すべきであることが述べられている。

(4) 昭和四六年六月発行の同学会誌第七巻第二号は、永田医師らの「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」と題する報告を掲載しているが、右報告は、昭和四一年八月から昭和四五年八月までに同病院未熟児室に収容された未熟児生存例一六五例を対象に、本症の発生率、経過、予後、及び本症進行例に施行した光凝固法の治療成績をまとめたもので、本症の発生率は15.2パーセント(二五名)で、そのうち、オーエンス活動期の2ないし3期まで進行した症例が9.1パーセント(一五名)、同4期まで進行した症例が3.0パーセント(五名)であること、生下時体重、在胎週数、酸素使用日数と本症発生との相関関係については、生下時体重一六〇〇グラム、在胎週数三三週以上のものに一週間以内の酸素投与を行なつた場合はまず危険はないと考えてよいが、生下時体重一六〇〇グラム、在胎週数三二週未満のものに二週間以上の酸素投与を行なつた場合は全例にオーエンス活動期の2期以上の本症が発生し、大多数は3期以上に進行したこと、本症に罹患した児のうちオーエンス活動期の4期まで進行した五例に対し光凝固法を施行し、極めて良好な治療成績を得たこと、また、他院から送られた未熟児一〇例に対しても同法を施行し、手術時期を失した二例を除き、良好な成績を得たことを報告している。

以上に認定した事実からすれば、被告尾崎医師は、酸素投与を行なつた未熟児に本症が発生し失明に至ることがあり得ることは臨床経験を積む以前から理解しており、ただ、酸素濃度を四〇パーセントないし三〇パーセント以下に制限し、酸素量を徐々に減量すれば、ほぼ本症の発生を防止し得ると考えてはいたが、国立善通寺病院における前記臨床経験から、極めて稀有の事例とはいうものの、酸素投与を全く施行していない未熟児にも本症が発生した例を知つおり、同医師の本件当時における本症に関する右医学的知見からしても、酸素制限を実行し、これに成功したとはいえ、原告勝直に本症が発生する危険のあることは、これを予見し得たものというべきである。

現に被告尾崎医師は、原告勝直が被告病院に入院中、被告尾崎本人尋問の結果により、結果的には失敗したことが認められるとはいえ同病院健康管理科の岡医師に依頼し、成人用カメラによる同原告の眼底撮影を試み、また、同原告の退院に際し、本症の発見と一般的眼科疾患の検診を兼ねた眼科医に対する紹介状を書いている(これらの事実は、当事者間に争いがない)が、これらの行為は、いずれも、被告尾崎医師において原告勝直に本症が発生する危険のあることを認識していたが故の行為と理解され、被告らが、被告尾崎医師は原告勝直の本症罹患を予想だにしておらず、同医師の右行為は、単に本症発生の知識を有していただけで、原告勝直の本症発生を予見したうえでの行為ではない旨主張するのはにわかに首肯できない。

さらに、本件発生当時ころには、本症の研究者から臨床小児科医に対し、酸素濃度を四〇パーセント以下に制限しても本症の発生がみられること、ことに極小未熟児には本症の発生率が高いこと、本症の早期発見のためには未熟児に対する定期的眼底検査の必要があること、本症の治療法として光凝固法が開発され、幾多の追試を経てその有効性が確かめられつつあることなどの警告ないし報告がなされており、被告尾崎医師においても、同医師の所属する日本新生児学会ないし同学会誌を通じて、本症に関する右医学的新知見についてこれを知る機会があつたこと等すでに認定した事実関係に鑑みれば、同医師は、一般の専門医の当時の医学常識として、原告勝直の本症罹患について、少なくともこれを予見すべきであつたというべきである。

そこで、以下、進んで、原告らの主張する被告尾崎医師の具体的注意義務違反の存否について、検討する。

2 眼底検査実施義務違反の存否

原告らは、被告尾崎医師において、原告勝直の被告病院入院中、少なくとも退院までに一度は他院の眼科医の出張検診によるか、あるいは、同原告を眼科の併設された他院へ搬送する方法により、同原告に対し眼底検査を実施すべき注意義務があつた旨主張するところ、前認定の被告尾崎医師の本症に関する医学的知見ないしは、原告勝直の本症罹患の予見可能性の事実に照らすと、同医師としては、本件当時、少なくとも原告勝直の被告病院退院前後の時点で、眼科医により本症発生の有無を確認するため眼底検査を同原告に対し実施する必要があることを認識し、または、その認識を有すべきであつたと認められる。

しかしながら、一般に医師に対し、ある一定の診療行為(検査、検診を含む)の実施を義務づけるためには、単に医師が右診療行為の必要性の認識を有し、または、その認識を有すべきであつたとの主観的要件だけでは足りず、特段の事情がない限り、当該診療行為が、該医師の勤務する病院の設置された地方における同病院と規模、能力を同じくする他の病院においても、一般にこれが実施される程度にまで、客観的に普及をみている必要があることは、前述の医師の責任と一般的医療水準の説示から推して当然であるといわなければならない。

しかるところ、原告ら主張の眼底検査を実施するには、眼科の併設をみない被告病院にあつては、他院の眼科医ないし他院との提携、協力体制を要すること既述のとおりであり、一方、未熟児に対する本症発見を目的とした眼底検査は、全国的にみても、昭和四〇年ころから一部の研究機関を中心に徐々に普及をみたもので、昭和四六年の本件当時、被告病院の置かれた香川県地方においては、国公立の眼科の併設された総合病院のうち、約半数の四病院で実施されていただけで、しかも、いずれもその病院で出生した未熟児に対し眼底検査を実施していたに止まり、他院ないし他院の眼科医との提携、協力のもとに、出張検診などの方法により未熟児の恒常的眼底検査を受けるだけの医療体制は敷かれていなかつたこと前認定(二の3の(三))のとおりである。

そして、香川県下においては高松赤十字病院とともに、一流の設備、規模を有する総合病院としての評価を有する県立中央病院(この点は、当裁判所に顕著な事実である)においてさえ、証人藤沢洋次の証言によれば、本件当時、すでに眼科を併設し、眼底検査の実施能力を有する眼科医を擁していたのに、未熟児に対する眼底検査の実施はいまだ施行されるに至つていなかつたことが明らかである。

ところで、被告病院は、原則として被告公社職員及びその家族を診療対象とし、本件当時、総合病院の形態はとつていたものの、内科、小児科、外科、産婦人科及び健康管理科に各一名の医師を配置していただけの規模もさして大きくない病院であり、眼科の併設もなく、しかも、小児科は昭和四六年三月に設置されたばかりで、原告勝直が、同病院で出生した最初の未熟児であつたことは、いずれも当事者間に争いがないところである。

以上の実情からすれば、本件当時の香川県下における未熟児眼底検査に関する医療水準ないしは、その普及度合に照らし、前記程度の規模・設備を有するに過ぎない被告病院に勤務する小児科医たる被告尾崎医師に対し、他院または他院の眼科医と提携し、もしくはその協力を得たうえ出張検診を受けまたは児の搬送により未熟児の眼底検査を実施すべき注意義務を課すことは余りにも当時の医療体制の現状、換言すれば、地域的環境による制約を無視するものであつて相当ではないといわざるを得ない。

原告らは、被告尾崎医師が、国立善通寺病院において未熟児保育に相当期間従事し、自ら未熟児の眼底検査を同病院の眼科医に依頼していた事情をもつて、同医師に原告ら主張の眼底検査実施義務が存在する一事由と強調するが、〈証拠〉によれば同国立病院は昭和三四年ころから特殊小児診療センターを設置して未熟児医療に当つてきた、香川県下でもその分野の先駆的病院で、被告病院とはその規模、能力を全く異にし両者を同一には論じ得ない事実が認められるから、右事情をもつて、被告尾崎医師に原告ら主張の眼底検査実施義務を認める特段の事情とみることはできず、他に右特段の事情を認むべき証拠はない。

以上に認定説示したとおりであるから、被告尾崎医師の眼底検査実施義務に関する原告らの主張は、その余の判断を俟つまでもなく失当として排斥を免れない。

3 説明義務違反の存否

医師が、自己の診察した患者またはその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項について指導すべき義務を負うことは医師法二三条に定めるところであり、右法意に照らせば、医師が自己の診療行為の過程で専門外の領域に属する疾患が患者に発生する危険を認識ないし予見し、またはこれを予見し得る場合には、原則として、これを患者またはその家族等に説明し、もつて、当該患者が右疾患の専門医による診察、治療を速やかに受け得る機会を与えるべき注意義務を負うものと解される。

もとより、患者に発生の予見される専門外領域の疾患といつても、これに抽象的な危険を含めるとすれば、無限に拡大するものであるから、医師に前記説明義務が生ずるのは、自己の診療の過程もしくは予後において、一定の蓋然性をもつて、具体的に発生する危険のある疾患に限られるべきものとするのは当然であり、また右説明は、その当時における一般的医療水準に照らし、これに適合したものであることを要し、かつこれをもつて足るものと解するのが相当であつて、発生の予見される疾患であつても、症状が比較的軽微で自然治癒が予測されるもの、専門外とはいえ、当該医師自らの今後の診療過程で治療可能なものなど、医師において患者に対し、説明を尽くしても、却つて、無用の不安感ないし混乱を与えるだけで、説明自体無意味な場合には、医師に前記説明義務は生じないものというべきであるが、他方、予見される疾患の結果の重大性が考えられるときには、たとえ、右疾患の発生する蓋然性が低くとも、医師としては万一の場合を考慮し、これを患者もしくはその家族に説明し、患者が予期せざる最悪の事態に陥ることのないよう、右事態発生を未然に防止する義務があるといわなければならない。けだし、患者は、医師を信頼し、自己の身体、生命を、いわば医師に預けているのであるから、医師としては、患者に対し、右信頼に答えて、万全の配慮をすることが要求されるところであるからである。

この見地においては、医師が専門外の領域での予見される疾患について、有効な治療法が存在することを知らなかつたからとて、これをもつて、前記説明義務を免れる事由とすることはできない。すなわち、日進月歩し、しかも専門領域が分化している現在の医学界にあつては、専門外の分野において、新治療法の開発、研究が進み、その分野において、ある程度の普及をみていても、その成果、情報が、専門領域におけるそれに比して、遅く伝わることは、容易に想像し得るところであるから、医師としては専門外の疾患については、治療法の存否を含め、まず当該疾患の専門医に診療を受けるべく患者に説明するのが、医師として当然、とるべき措置であるというべきである。

被告らは、新治療法の開発と医師の責任について、新治療法が臨床実験、追試、公表、卒後教育の各段階を経て、医学界において有効な治療法として確立をみて、はじめて一般臨床医に当該治療法の有効性を前提とした責務が生ずる旨主張するが、医師に当該治療法の施行ないし同治療法施行のための患者の転医等を義務づけるには、当該治療法が一般臨床医の間で有効であるとして確立している必要があると一応は、いえるけれども、患者に対し予見される専門外の領域の疾患を説明し、専門医による受診を勧告すべき医師の義務は、必ずしも被告ら主張のように有効な治療法が確立していることを前提とせず、むしろ、当該治療法の普及度合は、説明義務を尽くした場合に患者が同治療法の施行を受け最悪の事態を避け得たか否か、すなわち説明義務違反と損害との相当因果関係の存否を判断するうえでの基準要素として扱われるべきである。

けだし、患者に専門外の疾患の発生が予見される場合、被告ら主張の如く、有効な治療法が確立する段階まで医師に前記説明義務さえ生じないとすれば、専門医の間で一定の普及をみ、医師が右説明義務を尽くしたならば受け得た可能性のある新治療法の施用を患者において受ける機会を失するという不合理な結果を生ぜしめるからである。

そこで、本件につきこれをみるに、被告尾崎医師としては、原告勝直に失明という重大な身体障害を招来する危険のある本症の発生について、これを予見し、少なくとも予見すべきであつたこと、また、被告尾崎医師が本症の発見のため眼科医による眼底検査の必要性を認識していたことはすでに認定したとおりであるから、たとえ本症の有効な治療法の確立を知らなかつたとしても、前説示に照らし原告勝直が被告病院を退院するまでの間に、原告勝直の保護者である原告喜久子らに対し、原告勝直に本症の発生が予見されることを説明したうえ、本症の専門医である眼科医の診察を退院後速やかに受けること勧告すべき注意義務があつたというべきである。

そこで、被告尾崎医師が、原告喜久子らに対し、右説明ないし勧告義務を尽くしたか否かについて判断するに同医師が八月二八日、原告勝直の退院許可に際し、原告喜久子に対し、原告勝直の眼科医受診のための紹介状を書く旨申し向けたこと、同医師が、九月二日、原告喜久子の申し出により、県立中央病院眼科医あてに紹介状を書き、同日、原告喜久子に交付したこと、右紹介状の趣旨は本症の発見と一般的眼科疾患の検診を兼ねるものであり、同紹介状には原告勝直に対する酸素投与の経過が記載され、眼科医がこれを閲読すれば右紹介状は未熟児たる原告勝直の本症罹患の有無を確認するための眼底検査の依頼と理解できるものであつたことは前認定のとおりであるが、一方、〈証拠〉によれば、被告尾崎医師が、八月二八日、原告喜久子に眼科医の紹介状を書く旨申し向けた際、同医師は、原告勝直の退院後に一度眼科の診察を受ける必要があるから希望の病院を申し出るよう申し向けたに止まり、原告喜久子に対し、原告勝直に本症罹患の危険があり、そのため早期に眼底検査受検の必要があることまでは説明してはいないこと、原告喜久子は、被告尾崎医師から原告勝直の眼科受診勧告を受けたものの、原告勝直が被告病院入院中、退院の約一か月前から眼脂を出し、ほぼ連日カナマイの点眼を受けていた(この点は原告勝直の臨床経過の項の認定のとおり)ことから、右受診勧告は眼脂の治療程度にしか受け止めていなかつたこと、そして、原告喜久子は、前記のとおり、八月二八日に、被告尾崎医師から退院許可と眼科受診勧告を受けながら約一週間原告勝直の退院を延ばしたこと、右退院の延長は原告喜久子の希望によるものではあつたが、一方被告尾崎医師においてもすでに臨床経過の項で認定したとおり、「退院は月末でもよく、御自由に」と看護婦に指示していること、さらに退院後は、原告喜久子は、原告勝直の眼脂が減つたこともあり、また、同原告を外来の眼科医へ連れて行くことにより他の病気の感染を受けることを懸念して日を重ねるうち、九月二七日ころに至つて原告勝直の眼の異常を発見し、ようやく眼科受診に赴いたこと(その詳細な経過は、すでに認定したとおりである。)。なお、被告尾崎医師が原告勝直の入院中、被告病院の健康管理科部長岡耕一医師に依頼して同原告の眼底撮影を試みていることは前認定のとおりであるが、この際も、被告尾崎医師は原告喜久子らに対し、右眼底撮影の実施及びその趣旨について一切説明をしていないこと、以上の事実が認められる。

被告らは、被告尾崎医師が、原告喜久子に対し、原告勝直の眼科受診を勧告した際、本症罹患の危険を説明したうえ早期受診を指示した旨主張し、被告尾崎本人は、一見、右主張に副う供述をしているけれども、この点に関する同人の供述を仔細に検討すると、右指示、説明を尽くしたと断言強調する供述は遂に見当たらないのみならず、前記供述部分は、前記認定の事実、ことに原告喜久子が眼科受診の勧告を受けその際本症罹患の危険を説明されていたならば、世の親としては、何をさておき、直ちに眼科受診に赴いたと考えられるのに、漫然と約一か月間、これを放置していたという、余りにも不自然、不合理な事実関係に照らし、にわかに措信し難く、被告尾崎本人の右供述をおいては、他に、被告尾崎医師が、原告勝直の保護者らに対し、前記説明及び勧告をしたことを認めるに足りる証拠はない。

以上によれば、本件において、被告尾崎医師は、原告勝直の被告病院入院中もしくは退院時には、同原告の保護者である原告喜久子らに対し、原告勝直に本症罹患の危険があることを説明し、あわせてその検査のため同原告の退院後速やかに眼科受診をなすべきことを指示、勧告すべき注意義務があつたにもかかわらず、同原告の退院許可に際し、単に退院後一度眼科受診を受けるよう勧告し紹介状を交付したに止まり、右注意義務を十分に尽くさなかつたと認めざるを得ない。

なお、被告らは、この点につき、原告喜久子が経験豊富な看護婦で、本症についての一応の医学的知識を有すべきものであり、かつ、紹介状の交付がそれ自体早期受診を促すものであることを十分知るべき立場にあつた旨主張するが、〈証拠〉によれば、原告喜久子は、昭和四一年に岡山大学医学部付属高等看護学院を卒業後、昭和四四年三月まで同病院内科に勤務し、一旦退職後、昭和四五年五月から高松市内の栗林病院に、同年一一月から被告病院にそれぞれ勤務し、本件当時まで約四年間の看護婦経験を有していた者であること、同原告が高等看護学院在学中に教科書として用いられていた昭和三九年二月発行の高等看護学講座第五訂版には、未熟児に対する酸素投与の濃度が四〇パーセント以上となり高濃度が持続すると本症が発生し、盲目、弱視をきたしやすい旨の記述があり、同原告と同時期に津山中央高等看護学院を卒業し、本件当時、被告病院小児科に勤務していた同僚看護婦は、酸素過剰投与により本症発生の危険があるとの認識を有していたことの各事実が認められ、右事実からすれば同原告は、その職業、経歴からして本症に関する医学的知識を得易い立場にあつたとはいえるけれども、右認定事実をもつて、直ちに本件当時、同原告が原告勝直の本症罹患を予見していたと推認するには足りなく、むしろ、原告喜久子本人尋問の結果によれば、同原告は、看護婦としては内科勤務が主で、未熟児保育を担当した経験はなく、本件当時、本症に関する医学的知識を有せず、同僚看護婦から原告勝直の保育につき酸素過剰投与に注意を払つていることを聞きながらも、本症の発生と関連づけてこれを理解してはいなかつた事実が認められる。

また、医師による紹介状の交付が、一般に、それ自体、患者に対し可及的早期に受診すべき趣旨を含むものと解すべきであることは、被告ら主張のとおりであろうが、一方、紹介状交付の際の医師の説明内容または患者側のその当時の容態その他の具体的事情によつては、患者側が医師から紹介状の交付を受けながら受診時期を遅らせる場合もあり得ない訳ではなく、本件において、原告喜久子が被告尾崎医師から紹介状の交付を受けながら、原告勝直の眼科受診を約一か月間放置していたのは、右紹介状交付の趣旨を眼脂の治療程度に理解していたことによるものであることは前認定のとおりである。

そうすると、原告喜久子が看護婦として本症に関する医学的知識を得易い立場にあつたこと、被告尾崎医師から眼科受診の紹介状の交付を得ていたことは、いずれも、被告尾崎医師の説明義務違反の過失の程度を軽減する原告らの側の事情であることは否めないが、右事情をもつて、被告尾崎医師の右説明義務を免責せしめ得る事情とまでは解し難く、他に右免責事由を認むべき証拠はない。

四被告尾崎医師の説明義務違反と原告勝直失明との因果関係

原告喜久子が、県立中央病院において原告勝直の本症罹患及び片眼の失明を知らされた後とはいえ、同僚看護婦から本症に関する知見度が比較的高い高松赤十字の丸山医師の存在を聞き、日を置かずして同医師の診察を乞うていること、丸山医師は、昭和四三年ころから同病院の小児科から依頼を受けた未熟児のうち、眼底検査の結果本症発生の危惧される児を天理よろず相談所病院へ光凝固法の施行を目的に送つており、原告勝直についても両眼ほぼ失明の診断をしながらもなおかつ天理よろず相談所病院で光凝固法の治療を受けることを勧めていること、原告喜久子らは、丸山医師の右勧告を受け、原告勝直を直ちに天理よろず相談所病院まで連れて行き永田医師の診察を受けていること、一方、本件発生当時、天理よろず相談所病院においては永田医師らが、徳島大学医学部付属病院(徳島大学は、隣県に所在し、被告尾崎医師の出身大学である)においては布村医師が、それぞれ光凝固法による本症の治療を実践しており、他院から紹介ないし転送された未熟児についても同治療法を施行し、良好な結果を得た例もあることは、いずれも前記認定のとおりであり、右事実に徴すれば、被告尾崎医師において前記説明義務を尽くしていれば、看護婦である原告喜久子が職業柄得易い医学情報によつて高松赤十字病院の丸山医師に原告勝直の診察を仰ぎ、同医師らを通じて原告勝直が天理よろず相談所病院または徳島大学医学部付属病院に送られ、被告病院退院後間もない時期に光凝固法の施行を受けて両眼失明という最悪の結果を防止し得た一定の蓋然性のあることはこれを否定することができないというべきである。

とはいえ、一方、被告尾崎医師が前記説明義務を尽くしたとしても、原告喜久子が原告勝直を高松赤十字病院の丸山医師に必ず受診させたとは限らず、また、本症の臨床経過は前認定のとおり、一様ではなく、定期的眼底検査を実施していない本件においては、原告勝直の本症発生の時期、進行経過ないしは症例別(厚生省特別研究班報告のⅠ型かⅡ型か)も不明であり、また、同原告の全身状態が光凝固法のための搬送ないしは手術に耐えられたとの確証はなく、仮に、被告病院退院後間もない時期に光凝固法の施行を受ける機会が同原告に与えられたとしても、すでにその適期を失していたかもしれず、また、同原告の本症が光凝固法によつても進行を阻止し得ない症例であつた可能性も否定することができないところである。(光凝固法の適期を判定するためには、同一検者による定期的眼底検査が望ましく、他院からの紹介患者についてその適期を逸し易いことは、前記永田の報告例にもあるとおりである。)

以上説示したところによれば、被告尾崎医師の前記説明義務違反と原告勝直の両眼失明との間の因果関係は、これを直ちに肯認するには、種々の不確定要素を伴うものであることは否定できないところである。しかしならが、他方、前述のとおり、右説明義務を尽くしたならば失明を防止できた蓋然性もこれを否定し去ることのできない本件においでは、被告尾崎医師の右説明義務違反と原告勝直の両眼失明と間の因果関係を肯定したうえ、右不確定要素の存在を損害の範囲ないしは損害額の縮少事由として考慮するのが、損害の公平な分担をその本旨とする民事損害賠償制度の理念に副うものというべきである。

五被告公社の責任

被告公社は、被告病院を経営管理しているものであり、被告尾崎医師は同病院の被用者として勤務する医師であることは、当事者間に争いがなく、同医師に原告勝直の診療上、前記説明義務違反の過失があつたことは前認定のとおりである。

そうすると、被告公社は、被告尾崎医師の前記説明義務違反により原告らに与えた損害について、その余の責任原因についての判断を俟つまでもなく、民法七一五条に基づく使用者責任によつて、これを賠償すべき義務がある。

第四損害

一原告らの損害と被告らの賠償責任の範囲

原告勝直は、本症による両眼失明のため、生涯を盲目のまま過ごさざるを得ず、日常生活はもとより、職業その他社会生活全般にわたり重大な障害ないし制約を負うものであつて、その精神的、経済的損失は計り知れないところである。また、原告勝直の両親である原告茂市及び原告喜久子が原告勝直の両眼失明により受ける精神的苦痛その他の損害も、これまた甚大であることは敢えて説明を要しないところである。

しかしながら、被告尾崎医師の過失の態様と原告らの右損害に対する寄与の程度を斟酌考量するに前認定のとおり、被告尾崎医師が前記説明義務を尽くしたならば、原告勝直の両眼失明を防止し得たとの蓋然性は否定できなく、その意味合いにおいて、同医師の過失と原告勝直の両眼失明との間の因果関係は、これを認めるものではあるが、一方、原告勝直の本症の発生原因は、そもそも同原告が在胎週数三〇週、生下時体重一三四〇グラムという極小未熟児として出生し、網膜血管の未成熟な状態のまま呼吸運動により酸素を体内に摂取せざるを得なかつたこと自体にその主因が求められ、その誘因と考えられる保育器収容中の酸素投与についても極小未熟児特有の著るしい呼吸障害による生命の危険と脳障害を回避するうえから必然的にこれを実施せざるを得なかつたものである。しかして、被告尾崎医師は、極小未熟児として出生し一時はその生命さえ危ぶまれた原告勝直の治療、保育に当り、被告病院の看護婦らの協力を得て献身的努力を重ねた結果、同原告の救命に成功し、さらに、本症発生防止のため酸素の過剰投与に特段の注意をはらい、同原告の全身状態に対応して投与酸素の減量調節を計つたことは前認定のとおりである。(原告らは、本訴提起段階で、被告尾崎医師の原告勝直に対する酸素過剰投与を同医師の過失責任の一つに挙げていたが、その後これを徹回するに至つたことは、本件記録上明らかである。)ただ、惜しむらくは、被告尾崎医師は、原告勝直の被告病院入院中、もしくは退院時に原告喜久子らに対し原告勝直に本症発生の危険がある旨説明し、退院後速やかに本症発生の有無を確認するため眼科受診を受ける旨指示、勧告すべきであつたのに、右説明義務を怠り、もつて、本件当時一定の普及をみていた光凝固法による本症の治療を原告勝直が受ける機会を失わしめた点に過失責任があると解するものであるが、右説明義務は患者の早期、適正な医療享受に責任を負う医師に課せられた注意義務の一つに属するものとはいえ、本来の自らの治療上の注意義務自体の懈怠ではなく、しかも、本件においては、同医師は、原告勝直の母親である原告喜久子に対し、原告勝直の退院後眼科受診の必要のあることを告げたうえ、本症罹患の検査趣旨を含む眼科医に対する紹介状を交付しており、原告喜久子らにおいて、右紹介状の受領後は、直ちに眼科受診をする機会は与えられていたものであり、さらに、被告尾崎医師が前記説明義務を尽くしていたとしても、原告勝直が時期を失せずして光凝固法の施行を受け、その結果両眼失明を免れ得たかについては、これを肯定し得る事情があると同時に、本症の臨床経過並びに本件当時の未熟児眼底検査及び光凝固法の普及度合等に照らすと、これが否定される不確定要素が存在することは前述のとおりである。

以上の被告尾崎医師の過失の態様と右過失の原告勝直の失明に対する寄与の程度ないしは因果関係上の不確定要素の存在を総合考慮すると、本件においては、被告らに対し、原告勝直の失明により生じた原告らの損害のうち、原告勝直の将来の逸失利益など財産的損害を含めた意味での精神的慰藉料の一部を賠償せしめる限度で損害賠償責任を負担させるのが相当である。

二慰藉料

そこで、被告らに賠償責任を負わすべき原告らの慰藉料額について検討するに、前述の、原告勝直の両眼失明による原告らの精神的苦痛の甚大性、被告尾崎医師の過失の程度、内容及び右過失と原告勝直失明との間の因果関係上の不確定要素の存在並びに原告勝直の失明に関する原告らの側の要因、すなわち、同原告の極小未熟児としての出生に本症発生の素因が存在すること、また、被告尾崎医師から眼科受診の紹介状を交付されながら原告喜久子らにおいて同受診を遅らせていたことなど、その他本件にあらわれた一切の事情を斟酌すると、被告らが原告らに対し賠償すべき慰藉料額は、原告勝直に対し五〇〇万円、原告茂市及び原告喜久子に対し各五〇万円と認めるのが相当である。

三弁護士費用

本件訴訟の内容、経過及び認容額その他諸般の事情を考慮すると、原告らが被告らに対し賠償を求め得る弁護士費用の額は原告勝直につき五〇万円、原告茂市及び原告喜久子につき各五万円と認めるのが相当である。

第五消滅時効の抗弁

被告らは、不法行為に基づく原告らの本件損害賠償請求権は、三年の短期時効により消滅した旨主張するが、民法七二三条の「損害及び加害者を知りたる時」とは、単に損害の発生と加害者を知つただけでは足りず、加害行為の違法性及び加害行為と損害との間の因果関係についてもこれを知ることを要するものと解すべきである。

ところで、本件は、未熟児網膜症による失明事故という特異な医療紛争事件であつて、担当医師の過失責任(違法性を含む)及び損害との因果関係を知るには高度の専門的医学知識を必要とし、裁判例としても、本症による失明事故につき担当医師の過失責任が肯定されたのは、昭和四九年三月二五日に岐阜地方裁判所において言い渡された判決がはじめてである(この点は、当裁判所に顕著な事実である。)。

そうすると、原告らにおいて本件不法行為に基づく損害賠償請求に関し、民法七二四条に規定する「損害及び加害者を知りたる時」とは、右判決のあつた昭和四九年三月二五日より以降とみるのが相当であり、本訴提起が昭和五〇年八月六日であることは記録上明らかであるから、結局、被告らの消滅時効の抗弁は失当として排斥を免れない。

第六結論〈省略〉

(村上明雄 佐藤武彦 田中哲郎)

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